
古墳時代、畿内に前方後円墳が登場するのとほぼ同時期に会津地方でも前方後円墳が作られ始めており、すでに大和朝廷の影響下にあったことが伺えます。
古墳時代中期以降は、会津地方の古墳造営が減少し、代わって中通りで盛んに古墳が作られました。
5世紀にはすでに福島県全域が大和朝廷の支配下にあったと思われ、福島県域の各国に国造が置かれます。
当初、大和朝廷の勢力圏は福島県域が北限であり、蝦夷勢力圏との境界にあたる信夫国(福島盆地)などの国には防備の任もありました。
また、関東や近畿地方などから、さかんに開拓のための移民も行われました。
その後、国は評(こおり)と呼び名が代わり、陸奥国に再編されます。
また、大和朝廷の勢力圏も宮城県域、あるいはさらに北に拡大し、信夫評(しのぶごおり)も「北端」ではなくなるのです。
701年(大宝元年)の大宝律令の施行時には陸奥国となり、評は郡、評司(国造)は郡司になりました。
拡大した陸奥国は718年(養老2年)に3国に分割されます。
ただし、724年(神亀元年)までにはこの3国は再び陸奥国に合併されるのです。
これらの郡は、その後、人口の増加などにより、さらに再分割されるのです。
例えば信夫郡から伊達郡が分割され、安積郡からは安達郡などが分割され、会津郡も耶麻郡を始め多くの郡に分割されました。
現在、福島県域は岩盤が固くて地震が少ないから「岩城」の国と呼ぶ、という説がありますが、これは「いわしろ」に「岩城」という文字を当てたために生まれた俗説といわれます。
岩城国の由来は石背国にあります。
石背国の読み方は本来「いわせ」であったが、後に山背を「やましろ」と読むのに習って「いわしろ」とも読むようになったと推測されます。
明治の国名では「いわしろ」の読みを採用し、「岩城」の文字を当てました。
平安時代には会津で恵日寺が強大な勢力を得たが、平安時代末期にはほぼ福島県全域が奥州藤原氏の勢力下に入り、藤原氏一族の信夫佐藤氏が福島盆地を本拠地として、中通りの中部まで、恵日寺後退後の会津、山形県置賜地方まで支配するまでになりました。
平安末期、福島県内で他には中通りの石川氏、浜通りの岩城氏が存在しました。
石川氏は清和源氏の流れで前九年の役に従軍して石川郡に定住し、岩城氏は桓武平家の氏族で、藤原清衡の養女を妻に迎えて石城郡に定住したとも石城郡司の子孫とも伝わっています。